信長の鉄甲船阿武丸 狭山造船所京橋船台
信 長 の 時 代 の 軍 船
当時の軍船は、安宅船と関船と小早と言い、それぞれ現代の戦艦、巡洋艦、駆逐艦に相当する。1 図は、関船形式の海御座船の模型である。船首に屋形が設えてある以外は戦闘艦 関船と大差はない。水押し造りで三階造りのスリムな船型に総矢倉をあげ。1人漕ぎの小櫓70挺を立てる代表的な船型である。安宅船はもう一回り以上大きく、船首は戸立て造りの伊勢形式が多かったようで、櫓は百挺を超える。
『村上水軍全史』の著者 森本 繁氏によると、「軍
船には、安宅船と早船と小早がある。早船は関船と
もいい、村上水軍の主力艦である。」と、また文禄
・慶長の役では大安宅船は輸送に従事した他には、
実戦ではあまり活躍機会が無かったとされる。
とすると、安宅船とは主力打撃戦力では無く、将が
座乗する旗艦として、あるいは武器糧食の補給艦で
あったのかも知れない。
ならば、木津川口の戦で毛利水軍に壊滅的な打撃を
与えた鉄装甲の大安宅船とはいかなる軍船であった
のであろうか。そこで、識者はこの船を如何に解釈
されているのか。 まず、文献別に一覧にした、
すると、1表になった。
出 典 一 覧 敬称略 斜体文字:筆者追記 筆者換算 1尺を0.3mとした
① 和船Ⅱ 石井謙治 法政大学出版局 1995年7月7日初版 1999年5月20日 3刷発行
② 復元日本大観 4 船 石井謙治編 世界文化社 1988年11月1日
③ ドキュメント信長の合戦 藤井尚夫 学研パブリッシング 2011年6月8日
④ 船、地図、日和山 南波松太郎 法政大学出版局 1984年7月1日
⑤ 琵琶湖の港と船 滋賀県文化財保護協会 平成22年8月1日
⑥ 図説 人物海の日本史 4 天下人と南蛮船 所載 船と航海の歴史 石井謙治 毎日新聞社 昭和54年3月1日
⑦ 海賊大将軍 三島安精 人物往来社 昭和42年4月25日初版発行
⑧ 海と水軍の日本史 下巻 佐藤和夫 原書房 1995年11年1日
AからFまでは信長の鉄甲船ではなく、関連する軍船の資料である。
A.江戸幕府 安宅丸は、当時の日本としては、けた外れの巨大船で、全長は60mを超える。
洋船の造りであったとされるが、世は太平に向かい、あまり活躍することもなく解体
されたと伝わる。
B.江戸幕府 天地丸は、関船造りの海御座船で三代将軍 家光の時代から幕末まで使用せ
られたと言う。A も B も将軍家の料で豪華絢爛に装飾されていた。
C.信松院 安宅船模型は、水軍の教材のために造られた小型の安宅船のひな形で、戦国
期の実船の、外形だけでなく内部構造まで再現した精密な模型である。
D.上原船 伊勢型関船模型は伊勢型の関船の精巧なもので高松市の上原孝夫氏が所蔵する。
E.秀吉の日本丸は、慶長の役で日本軍の旗艦であったとされる大安宅船である。
F.信長琵琶湖の軍船は前述した対 淺井戦に造られた「大船」である。
参考船の一覧表 1表 敬 称 略
関船形式の海御座船の復元模型 1図
元屋敷勝也氏建造 神戸大学海事博物館
巨大な信長の鉄甲船
本題の信長の鉄甲船では、
まず、 石井謙治氏は『(多聞院日記の)船体寸法は伝聞の誤りで、元亀 4(1573)年に信長の建造した(琵琶湖の)大安宅船が長さ30間、幅7間だから、同程度の巨船だったであろう。」②と解された。と同時に⑥『天下人と南蛮船』のなかで『多聞院日記』の長さ12、3間を22、3間の誤りではないかとされた。
③『ドキュメント信長の合戦』の著者 藤井尚夫氏は、尊経閣文庫『信長公記』による「長さ18間、横6間(32.4m×10.8m)」を採られた。すると大きさとしては普通程度の安宅船となる。必然的に総矢倉も、天守様矢倉も2層は無理で、共に 1 層となる。鉄板の装甲があること以外は、まずは尋常な安宅船形式となる。改めて参考船の一覧表 ― 1表から信長の鉄甲船の規模を考察すると、
1『多聞院日記』の記述そのままに全長:21.6~23.4
mとする、⑦『海賊大将軍』の三島安精氏説。
2 尊経閣文庫『信長公記』による長さ18間(32.4m)とす
る、③『ドキュメント信長の合戦』の藤井尚夫氏説。
3、『多聞院日記』の縦12.3間、横7間は、縦 22.3間の誤り
として長さは39.6m~41.4mとする⑥『図説 人物海の
日本史 4 天下人と南蛮船』の石井謙治氏 説。
4、は、いくつかの説のうちのひとつとして、全長54
m説もありとする、⑧『海と水軍の日本史下巻』の
佐藤和夫氏の4つに絞られる。表にすると 2表 になる。
村上水軍の安宅船 2図
建造 ザ・ロープ・ヒロシマ田島 勲氏
福山市鞆の浦歴史民俗資料館 蔵
秀吉の大安宅船「日本丸」 3図
服部武司氏 画
安宅船復元模型 4図
高田屋顕彰館・歴史文化資料館
参考船のまとめ 2表
そのうち 1 の 20m余りが本当なら大安宅船とは言えず、小型船の部類である。また、幅が長さの半分以上で、このような軍船が成立しないのは明らかである、故、これは除外する。次に、4、の 全長54mは、おそらく信長の琵琶湖の大船との混同で、これも除外する。と、残るひとつは 2 の18間 32.4mであるが、これでは大型船とは言えない。
B.江戸幕府の天地丸-上口長28.2m(全長では34m程度と考えられる)と比較して「見物は耳目を驚かす。」とまではいかない。天地丸は安宅船どころか、やや大型の関船級の海御座船に過ぎない。だからこれも除外する。 と、
3、の『図説 人物海の日本史 4 天下人と南蛮船』の長さ、39.6m~41.4mが残る。まず、これ位が妥当なところではないだろうか。一方、『ドキュメント信長の合戦』の長さ18間 幅6間も 随分と具体的な値であるからかなり信が置ける。これは著者の藤井尚夫氏の指摘するように、1間が必ずしも6尺 ≒1.8mではなく、何割かの増とすれば、ほぼ40mとなり3、の『図説 人物海の日本史 4 天下人と南蛮船』石井謙治氏説の全長39.6m~41.4mに、かなり近くなる。
ところで、宣教師パードレ・オルガンチーが耶蘇会に送った書翰に「日本国中最も大きく又華麗なるものにして王国 - ポルトガル王国 ― の船に似たり。」と信長の鉄甲船を、美しさと大きさにおいて、母国の船に匹敵すると言っている。
その母国の船とは『南蛮屏風』に画かれたガレオン船を言うもので、彼もそれに乗り、来日したものであろう。ガレオン船とは、比較的長い船体に3~4本マストを上げ、多数の帆を張る航洋船である。コロンブスの座乗した「サンタ・マリア号」のようなキャラック船から発達した大型の帆船で、ガレー船の戦闘力と機動力に帆船
の航続力と積載力を融合したもので、船首と船尾に楼閣を上げ、フォクスルから突き出したヘッドが特長だ。小さいものでも全長20m程度、大体は30~40mを測り、最大は50mになる大船で、それに匹敵すると言うなら、ほぼ全長40mぐらいと考えるとよく符合する。信長の鉄甲船は全長40mを測る当時としては、巨大な船であったと結論付けたい。