第16船 土方歳三も乗った榎本軍々艦 回天丸2023年竣工 縮尺:1/80 全長106cm
狭山造船所 第1船カティサーク
土方歳三も乗った軍艦回天丸
軍艦「回天」 元は、安政2年(1855年)建造のプロシア(後のドイツ)の軍艦ダンツィヒ(Danzig)号である。プロシア海軍創設期において建造された木造外輪式蒸気コルベットだった。設計および蒸気機関の製造はイギリスに依頼されたが、プロシアのダンツィヒ造船所で最初に建造された軍艦である。それまでプロシアでは、商船しか造ったことがなかったので、優秀な商船職工を集め、国内産の最上のオーク材を使って、船体を造ったという。
改装当時の木造軍艦の寿命はおよそ8年で、文久2年(1863年)ころには軍籍をはずれ、武器がはずされた。これには、ちょうど蒸気軍艦が、外輪式から内輪式(スクリュー)へと移行した時期だったことも関係すると考えられる。つまり外輪式は旧式になりつつあり、プロシア海軍の主力艦としてはふさわしくない、とされたようである。公売された結果、イギリス商人が手に入れ、ロンドンにおいて修理。新たに武装が施され、大砲は左右にイギリス製の40斤ライフル砲を5門ずつ、銅製の榴弾砲を2門、前面に50斤ライフル砲1門を備えた。また船首を飾っていたダンチヒ市(現在はポーランド領グダニスク)の象徴である女神像は鷲に変えられ、イーグル号と名付けられた。外輪式は内輪式にくらべて、馬力のわりに速力が出ない。そのため(当初からか改装時かは不明であるが)、コルベットとしては小型の船体に400馬力という強力なエンジンを積んでいたものと考えられる。
さてこの艦はやや複雑な経緯のうえ、日本幕府の入手するところとなり、最後は、榎本武揚軍の主力艦になったが、函館戦にて、官軍々艦「甲鉄」に敗れた。
建造中 回天
回天丸 艦中央部
回天丸 艦尾付近
第1船 英国クリッパー・カティサーク
1982年建造 縮尺:1/100 全長85cm
19世紀半ばから末にかけて活躍したクリッパー型帆船は、美しさ、速度において帆船全盛期の最後を飾るものであるが、カティサークはいずれにおいても卓越している。時代は木造中心から鉄あるいは鋼鉄の利用と、動力も風帆専一から蒸気機関の活用が始まった。皮肉なことにこの帆船の最高峰カティサークは、骨組みやブルワークに鉄が使われ、操帆に蒸気機関が使われていることだ。加えて沖がかりしてランチボートでの荷役から岸壁荷役に代わったことが、岸壁までの最後の航海を蒸気タグボートに頼らざるを得なくなった。
左は言え、模型製作者には人気が高く多くの人々
狭山造船所 第1船カティサーク
が造り、また多くのキットメーカーが発表している。故、全世界には数万隻のカティサークがあるのではないかと思われる。本船もその中の1隻に過ぎないが当造船所では記念すべき第1船で、何度も作り直して現在の姿となった。キットは 北栄商事社である。
第13船 北前船のルーツ 北国船 毘沙門丸
2017年建造 縮尺:1/32 全長83cm
北前船と言う形式の船はない。
要は廻船が運賃積みなのに比べて、買い積みを主体として日本海航路に従事した船で、しかも船主が日本海地域の船を言う。
かく言うと高田屋嘉兵衛も司馬遼太郎も大変困るであろうが一旦それはさて措き、北前船が運用を言うのであるから初期の頃には羽賀瀬船や北国船、中期以降には弁才船、後期には和洋折衷の合いの子船や洋式帆船も従事したがみな「北前船」である。明治期には蒸気船も同じ様な運用をしたが、さすがにこれは北前船とは言わないようだ。もっとも近代は鉄道輸送にとって代られた北前船
北前船のルーツ 北国船 毘沙門丸
は急速に衰退した。しかし地元を始めとして今でも往時の栄華を偲び、北前船と誇らしげに呼び種々の研究が行われている。しかるに今日北前船と呼ばれる船は何故か弁才船の北前船にかぎられていて「廻船に行われている船に比べ船尾の反り上がりが大きい」とか「最大幅部が船首側に寄っている」とか実に詳細の研究がなされているが、弁才船以前に行われた羽賀瀬船や北国船の研究は乏しい。
それも当然で我が国には、工学の伝統を遺産として伝えていくという風がなかった。
故に一旦新しい技術が発明されたり、あるいは用途が不要になった技術は残されることなく捨てられ資料そのものが無いのである。造船工学では遣唐使船も朱印船も伊達政宗のガレオン船の建造技術も捨てられ、後の世に伝えられることは無かった。北国船も同様で漕帆両用の北国船は帆走専一の弁才船に運用・コストの両面で敗退し捨てられた。またその技術も遺されず、『和漢船用集』にわずかの記事と、青森県深浦町の古刹 円覚寺に、寛永十年(1633年)奉納された絵馬があるのに過ぎない。
船舶の研究家 石井謙治氏はこれらの乏しい資料をもとに北国船図を作画された。船首の丸いかなりスリムな船型で、多数の櫂を備え、漕ぐ便のためか乾舷が低く、ブルワークも低く、丸い船首のすぐ後に蔀(しとみ)という波除けがある。ここに梯子様の構造物があるのは、帆柱は前に倒すための表車立のようなものと考えられるが、なんとも複雑な形をしている。
当造船所では石井氏の図をもとに1千石程度を想定して復元模型を建造した。
名は「毘沙門丸」とする。毘沙門天は多聞天とも言い、北方の守り神であるからそう決めた、
実際にそのような船があった訳ではない。
第14船 坂本龍馬の蒸気船 いろは丸
2017年建造 縮尺:1/44 全長108cm
いろは丸1862年、はイギリス・スコットランド・グリーノックで造られ、鉄製のスクリュー式蒸気船で帆装もあり、全長47mを測る。
当時木造帆船は技術的にも運用面でも爛熟期にあった。これ以上の発達がもはや望めないこの時期に蒸気機関による気走が実現、始めは効率の低い、運用の難しい外輪船であったものがスクリューの発明で一気に実用化が進んだ。
船体も木材の枯渇の心配のない軽くて強い鉄や鋼の使用が始まる。こんな蒸気船の黎明期に「いろは丸」は生まれた。ただ、産みの苦しみ
というか過渡期的な問題も多く抱えたままでの出発で、殊に日本では千石船からいきなりこの高度に発達した利器を手にいれたもので事故 事件の予感はあった。その予感通り「いろは丸」が瀬戸内海 鞆の浦沖に沈んだ。紀州船「明光丸」との衝突が原因である。それは江戸城無血開城の1年前、龍馬死亡の7ヶ月前の、慶応3年(1867年)4月23日のことで、世に「いろは丸事件」として知られている。
「いろは丸」は建造以来何度か転売された。建造の翌年の文久3年(1863年)に薩摩藩が購入
坂本龍馬の蒸気船 いろは丸
蒸気船 いろは丸の舷側灯
点灯していたか否かの論争になった。
して「安行丸」と名付けた。原名はサーラ号あるいはアヴィゾ号と言う。時を経ずして大洲藩に転売された。どうも機関が本調子でなく、転売を急いだもののようだ。不明朗な部分があったのか契約の実務担当者、大洲藩国島六左衛門が切腹した、暗雲を予想させるものだ。そして運用はの海援隊が担った。坂本龍馬も上位者として座乗している。長崎を出帆した「いろは丸」はその日 日没後 讃岐箱崎まで達したが、折悪しく西行する「明光丸」と衝突沈没した。思えば完成して間もなく故国をはなれ、何国人もの手に渡り、何度も名を変え、わずか5年でその生涯を閉じた「いろは丸」は真に悲劇の船であった。
ならば鎮魂の意味でもこの「いろは丸」の復元をしなければならないと一念発起。設計に1年 建造に6ヶ月を要し完成させたのが「いろは丸」である。この模型はその後、縁あって「いろは丸」の眠る鞆の浦 近く、福山市鞆の浦歴史民俗資料館に寄贈した。
第2船 英国フリゲート艦HMS・ユニコーン
2006年建造 縮尺:1/75 全長84cm
キットはコーレル社製である
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第12船 姫路藩洋式帆船 速鳥丸
2017年建造 縮尺:1/34 全長103cm
幕末、嘉永・安政の頃、我が国にいきなり洋式船ブームがまき起こった。西欧列強の開国を迫る艦船の派遣、とりわけ米国ペリー艦隊の浦賀来航に負うところが大きい。せいぜい2千石・排水量500トンにも満たない船が最大であったのに、四千トン近い大船が風を待たずに蒸気で走るのでこれは全くの驚きで、それに対抗するため次々に洋式軍艦が造られた。
姫路藩洋式帆船速鳥丸
750トンが造られ、その他にも多くの洋式船が造られ、あるいは外国から導入された。そんな中、姫路藩では幕府や名だたる雄藩に伍して3隻にも上る洋式船を建造した「速鳥丸」450石積み 100トンで、それも軍船ではなく民用船である。建造したのは江戸から大坂への航海中に嵐で遭難漂流して米国船に助けられ、米国に渡った姫路藩出身の元廻船乗組員 清太郎他で、かの国で得た知見をもとに帰国後、御津の造船所で安政五年1858年6月24日に進水させた。初航海は米1千俵他を積み、名も本荘善次郎と改めた清太郎が船頭となって江戸品川までを10日で到着、以後明治5年まで80回の航海をこなして藩財政に多大の貢献をした。
ただし、かく言うがその実体に迫る資料は少ない。
姫路藩に伝わる『姫陽秘鑑』に簡単な要目を載せる絵図が
市松模様は姫路藩船手組の御舩印
剣片喰藩旗と日章旗
あるのが知られていたが、播磨町の旧家で「清太郎」自身になると思われる絵図面の撮影の許可を頂いた。
勝海舟著『海軍歴史』ではスクネル(スクーナー)と紹介され『姫陽秘鑑』の絵図ではそのようにも見えなくも無いがこの図でははっきりブルガティーンと確認でき、『姫陽秘鑑』の要目とともに速鳥丸の船姿と大きさを朧げながら思い浮かぶことができ、復元模型を建造することにした。
絵図をよく観察すると船尾のみ欄干が廻らされて一段高くなっているからこの部分でデッキが高くなっていることが分かる。それも船の大きさから推して中二階のようで他の船でもよく採られている方法だ。ならば船首にも同様のデッキがある筈で揚錨作業の場所であろう。こう考えると、船体は和洋折衷のようなものではなく、全くの洋船造りであろう。船首には船手組の御舩印を付けマストに藩旗日章旗を掲げると写真の様になった。
第8船 静岡浅間神社奉納絵馬の船 アユタヤ
2014年建造 縮尺:1/38 全長83cm
奉納絵馬の主は暹羅国(シャム 現在のタイ)でオークヤーセーナピモックと称せられた。シャムにおける最高の貴族にして軍神という意味である。
江戸時代はいわゆる鎖国体制になってゆくが、それ以前は諸外国との往来は盛んであった。山田長政はそのころの人物で、生まれは天正十八年(1590年)静岡と言う。織田信長が本能寺に斃れた八年後のことである。
奉 納 絵 馬 の 船 アユタヤ
南蛮貿易はもちろん、秀吉の時代から行われた朱印船貿易は彼の時代、益々さかんで、東南アジア各地に日本人が進出、日本人町が各地に作られた。シャムのアユタヤもそのうちのひとつである。慶長十七年(1612年)頃そのシャム国に渡り、シャムの首都アユタヤを拠点に活躍、商取り引き、貿易で財をなし、武装兵を従え、国王に仕え次第に立身し、小国ながらリゴールの王となった。
船尾の浅間神社のお社
第15船 日本戦艦の起源 甲 鉄(東艦)
2019年建造 縮尺:1/66 全長91cm
日本海軍戦艦のルーツと言われるこの艦は「甲鉄(こうてつ)」と名付けられた。それはこの艦が鉄の装甲板を貼っていたからで、文字通りの鉄(てつの)甲(よろい)の艦との意である。後 海軍拡大期に入って、鉄装甲、あるいは鉄製の艦が普通に行われるようになって「東(あづま)」と改名されたが、日本では鉄装甲を施した艦の最初である。
日本戦艦の起源
甲 鐵
武装は着弾と同時に内包する火薬が破裂する弾丸を射つアームストロング砲を3門装備。艦体と砲郭に最大140mmの鉄の装甲を貼った。つまりやや不満ながら、自前の動力と強力な打撃力 装甲を備え、後の戦艦の要素を具備していた。このことが故に日本海軍 戦艦の起源とされる。
この艦は、やや複雑な経緯の結果、明治政府=官軍に籍を置き、榎本武揚立てこもる函館戦争に就き、宮古湾海戦、函館湾海戦(共に明治2年1869年)に参戦した。先ずは、岩手県宮古湾に碇泊中に榎本軍蒸気外輪船軍艦「回天」の奇襲攻撃を受けてこれを撃退、退却逃走する「回天」を僚艦「春日」等と追撃、惜しくも「回天」は逸するも敵艦「高雄」を途中で捕捉、同艦は機関が故障していたため進退窮まり、艦を岸辺に乗り上げ、乗組員は艦を焼いた後上陸投降した。「甲鉄」初陣の戦果である。
蝦夷地に到着した甲鉄以下各艦は、上陸軍に呼応して江差や松前付近の陸上の敵陣地に艦砲射撃を行っていたが、ついに明治2年5月7日、僚艦春日等とともに宿敵「回天」を函館湾に捕捉、砲撃により同艦の機関を破壊、ついに同艦をして自ら浅瀬にに擱座せしめた。また同様に榎本軍最後の軍艦 蟠竜も座礁せしめ、これにより榎本海軍は壊滅した。陸上戦闘においても、多勢に無勢ついに榎本軍を五稜郭に押し込んだが甲鉄は艦砲射撃によってこれを攻撃、弾丸は2㎞を超える距離を飛翔着弾した。実損害もさること乍ら、かかる長距離を超えての着弾に敵兵をして恐怖のどん底に陥れた。函館戦争は実質的にこれによって終結、榎本軍は降伏、甲鉄は凱陣した。
さあ、そんな「甲鉄」を模型で表現したいと建造にかかった。幸い 泉 江三氏が自身の著書の中に外形図・線図・内部構造図及び詳細な解説を発表されていて大部は把握できた。
とは言え模型造りには不明な点もあり、先ずは、帆が帆桁(ヤード)に直にロープで結わい付けられていたものか、ジャッキスティを使ったものなのかで、これはwebの写真で後者であることが分かった。
次に艦底に銅板を貼るかである。この頃よりフナクイムシ除けに銅板を張ることから、言わば有害な塗料を塗ることで防ぐことになっていくが、webの記事「彼女の鎧は、ウォーターライン(1.5 m)の下に5フィート伸びた。さらに、船体は銅で被られ 云々」により銅板貼りと言うことが分かった。故に艦体の色分けは喫水線上は木部も装甲板部も黒として、喫水線下の装甲部は赤、それよりも下の木材部は銅板被覆とした。
それやこれやと考えながら完成させたのが、図の日本海軍戦艦の起源「甲鉄」です。
さて、この甲鉄艦模型はこの度縁あって、北海道 江差町の開陽丸青少年センターに寄贈しました。
けいたい 2本マストの船 く づ は
第3船 繼體天皇の二檣船 九頭河
2007年建造 縮尺:1/32 全長68cm
ことの発端は一枚の線刻画であった。
これは繼體(けいたい)天皇の真陵、今城塚
古墳出土の円筒埴輪に描かれた船絵である
(右上のスケッチ)。埴輪絵は、全くシンプルに、船が港津に停泊している姿を描く。二本マストであるから、大型船には違いなく、それに帆も櫂も出していないことで、停泊していることが見て取れる。
御陵の船絵の埴輪は多数発見されていることから、ここに描かれた船が繼體天皇の軍船あるいは交易船で三島の港津の賑わいが想像され、あたかも後世、安治川口の千石船の帆柱の林立風景を彷彿させる。
繼體天皇は近江で誕生し、越の国の開発に
繼體天皇の二檣船 九頭河
力を尽くし、同地に多くの事跡を残された。今なお福井県民に敬愛され、市内の足羽山にはユーモラスな石像が建てられている。繼體天皇は越の国に培った経済力を背景に製鉄、鉄工業、造船、馬の増産、と当時の先端産業を興して、遂に天皇即位を要請されるに至った。
一体に造船産業は多くの基本産業の頂点に成り立つもので、大は巨木の製材加工から鉄工業、小は布裂一枚、糸一本に至るまでの工学 科学技術の集大成である。そのうえ、航路整備、 運航する船員の訓練、港津やロジステック全般の整備がなければ、船だけでは意味をなさない。
列島では今も当時も資源が無いことは同様で、海外への依存は大きく外交交易は大層重要で、繼體天皇の実力が期待された訳である。ならばその繼體天皇の船の正体を解き明かさなければならないが分っているのは、この船絵に過ぎない。しかし、幸いなことに考古学の発掘遺物から、当時の工業技術レベルが推測できることと、半島・大陸からの技術流入が想像出来ることで、そのようなことを勘案しながら設計製作したのが図の古代船「九頭河」(くづは)である。
御陵は淀川右岸の高槻市にあり、宮都は同じ左岸の枚方市樟葉(ひらかたし くずは)にあった。船は大阪湾から、これらの港津まで淀川を遡及 出来る二檣を備えた外洋船で、馬を乗せられる貨物室を持つものと想定した。
繼體天皇は北陸に本貫をもつことを考慮すると、韓半島・大陸との外交々易ルートは、たとえ壱岐・対馬を通じるものとしても日本海を北部九州までの航路はたどらなければならず、むしろ、壱岐・対馬を経由しないで直に半島と交易していたのではないだろうか。
繼體王朝は、一貫して百済との関連が深いが、北陸に於いての出土品があながち百済の関連のみではなく、新羅系の遺物も出ているから、半島東岸との交流もあったと思われる。いずれにせよ、対馬海流を逆走して、日本海航海に耐えうる船舶があったことは間違いなく、我々の考えるよりはるかに凄い、高性能の船が有ったのでは無いだろうか。
九頭河はそのひとつの問いかけである。
第10船 末吉朱印船 平野丸
2015年建造 縮尺:1/52 全長97cm
戦国時代が終焉して江戸幕府が成立した。その三代目に至り徳川家光の時代、寛永十二年(1635年)全ての邦人の海外渡航禁止令が発せられ、いわゆる鎖国態勢が確立するが、それ以前は諸外国との往来は盛んで南蛮貿易や朱印船貿易が行われていた。
南蛮人といえば、例の足首をしぼったダブダブズボンにフルリの付いたシャツ、それにマントを羽織った異国人の姿がすぐに思い浮かぶ。元、南蛮は中国から見て南方の野蛮人と言う意味で、ちなみに日本は倭で東夷だ。共に無礼な話であるがその南蛮地域、当時のシャムやルソン等から日本に交易に来ていたポルトガル人やスペイン人を言い、後にオランダ人などもひっくるめて西洋人を指すようになった。それはそれとして、おおむね16世紀半ばから17世紀半ばにかけてのアジア諸国の貿易はこの3国が握っていたのである。ただし彼らの国には輸出するような物産はなく、東南アジアや中国の産物を交易し、あるいは植民地化して搾取するなど、莫大な利益を上げていた。
そんな中、日本人にもそれにあやかろうと自ら船を仕立てて海外に出て行くものも現れ、為政者も積極的に後押しをしたのが朱印船貿易である。これについては小山田哲夫氏の『山田長政 知られざる実像』に詳しい。それによると、朱印船貿易とは「政権担当者から海外渡航を認められ船籍証明書をもらった船主が、それを持参して渡航・貿易に従事した制度」である。
徳川政権発給の朱印状をもった貿易船は、慶長九年1604年から寛永十二年1635年の31年間に合計356隻が出帆している。渡航地は多いものは交趾(ベトナム)71回、シャム56回、ルソン54回、カンボジア44回等である。
貿易家では、京都の角倉了以、茶屋四郎次郎、長崎の末次平蔵らが著名である。彼らは航海の安全を祈って、あるいは無事の帰国を感謝して各地の社寺に船絵馬を奉納した。
それらの中に大坂の末吉孫左衛門が京都清水寺に奉納した絵馬があり、それから筆者が復元したのが図の末吉朱印船 平野丸である。船は和船・中国船・洋式船との合いの子といった形式で、ミスツイス造りとも称される。船体は中国式の骨組に洋式で外板を張り、帆は中国式の網代帆で船首の遣り出し帆や船尾のラティーンセールは洋式であり、船首の矢倉は和船式である。
資料調べや設計を含め1年を要し15年に完成させた。長さは97㎝ある。
船は大阪市に寄贈し、現在は同市平野区役所にある。
第11船 蒙古軍船 むくり
2016年建造 縮尺:1/36 全長100cm
蒙古軍船 むくり 元スケッチ
蒙古軍船 むくり 竣工写真
蒙古軍船 むくり 設計図
蒙古軍船 むくり イラスト
服部武司氏 画
神 風 信 仰
蒙古襲来を総括して、元来、蒙古軍に蹂躙される運命にあった日本は、折よく吹いた『神風』によって、敵船が壊滅して助かったとされている。はたしてそうであろうか。
敵兵がもし、嵐で船とともに滅びたのであるなら、それは上陸をしても内陸侵攻を許さなかった鎌倉武士の奮戦の成果に他ならない。陸上戦に長けた蒙古軍が、なぜ陸に上がらず海上に止まったのか。
文永の役 (1回目の侵攻1274年)では、敵はひと当たりした後の予定撤退であった。
日本を属国にしようと画策する蒙古は朝鮮・高麗兵を手先に侵入、対馬 壱岐で残虐行為をはたらき、博多の町をも焼いた。後の交渉を有利に運ぶためで、いかに蒙古でも、3万ばかりの兵で渡洋し、後詰めもなく、日本を占領、経営出来るとは、考えもしないであろう。
勿論、勝負は水もの、作戦が順調に推移すればそのまま侵攻も考えたであろうが、予想通りの反撃があり、まあ、想定内の予定撤退、その帰路に嵐に遭遇したというのが真相のようだ。
弘安の役 (2回目の侵攻1281年)では、来襲したのは5月末で、暴風雨のあったのは閏7月1日であるから、防戦できたのはわずかに1ヵ月と解されそうだが左ではない。敵が神風で壊滅したとされるのは、閏7月1日であるから、6月と、7月中の2ヵ月を海岸で防戦撃退し、上陸を許さなかった。
陸上戦に長けた大陸軍を上陸させず、海上に封じ込めたればこその勝利で、防塁を築いての水際作戦と、小舟による波状攻撃は、敵をして、上陸はしても内陸まで侵攻させなかった。
この点で、語られることは少ないが、6月8日からの長門への上陸軍約5千を、ことごとく討ちとったことが大きい。
上陸部隊が、敵地に取り残されて包囲殲滅されるなど、悪夢以外のなにものでもない。
同じ頃、博多湾、志賀島水陸両用作戦でも敵を撃退し、以後、敵は7月27日まで本土には近づかず、逆に少弐経資が壱岐に出動、これを奪還している。敵はいかにも消極的だ。
御家人達は、損害をものともせずに小舟での波状攻撃を敢行した。
蒙古軍は大軍大艦を擁しながら、なにか防戦一方で、群れ来る斬り込みに辟易としている観がある。
また、神風-暴風雨による被害も甚大とはいえ、致命的なものではなかった。
弘安の役で、江南軍(宋は先年滅亡し、その兵)はほぼ全滅というが、これは高麗兵や蒙古兵と違い祖国を失った兵ゆえ、原隊への復帰がなかっただけで、相当数の兵は生還していると考えてよい。それは朝鮮・高麗兵が、7割以上が生還していることでも判る。戦闘や疫病で倒れた兵を考慮すれば、嵐での犠牲者はせいぜい10%だ。それが嵐で船に損害が出て「帰る船がなくなる。」の恐怖心から、全軍がパニックに陥り、自壊したのが実情である。
それは近時、伊万里湾の懸命の捜索発掘作業にもかかわらず、蒙古軍の船舶遺物が案外少ない。
かんじんの船体発見が、未だ2隻に止まることによっても理解ができる。
伝えられるように1千隻単位の沈没船があるなら、それだけの遺物が発見されてしかるべきであるがそうではない。木造船であるから朽ちて土に還ったにせよ、そうでない金属や器物がもっと発見されるべきところ、それほども発見されていないのがその証左だ。
ところで、戦に勝った将は「敵は強かったが、自軍の奮戦で勝った。」と言う。
「強い敵に勝った自分は、もっと強い。」と言いたいからで、まさしく蒙古軍は強敵であった。ところが何故か、戦後のかなり早い時期から「勝因は神助、神風が吹いて勝てた」論が流布する。
ひとつには、大陸 韓半島からの渡来品を唐物と称え、その憧憬する国に、勝てる筈はないが勝てた、と思う気持ちが、あったからか。ともかく、天皇家と寺社は盛んに蒙古調伏の祈祷をしたがその霊験を盛んに宣伝したが、其れこそその霊験のおかげでだったのかも知れない。いま一つ考えられるのは勝つには勝ったが得たのは寸土もなく、与える恩賞の無かった幕府が、戦った御家人の手柄を過少評価せざるを得なかったことが「神風信仰」になったのかも知れない。
蒙古襲来の顛末には、まだまだ謎は多いが、これが最大の謎である。
さて、復元したこの模型は佐賀県松浦市に寄贈し、蒙古軍船の発掘と保存をしている松浦市鷹島の松浦市立水中考古学研究センター付属のガイダンス施設に展示されている。
や ま と
第6船 卑弥呼の遣使船 邪馬門
2012年建造 縮尺:1/16 全長75cm
卑弥呼の船「邪馬門」を作って
邪馬台国 女王 卑弥呼の船を作った。
作ったと言っても 16分の1の模型である。倭の女王 卑弥呼は、魏の景初三年 西暦239年に大夫 難升米を魏に遣わした。『三国志』 魏書東夷伝 倭人の条に「その国、本また男子を以て王となし、住まること七 八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。」と記されている。 女王は、各クニグニの主流争いの末、八方丸く収める形で
遣使船 邪馬門 側面
共立されたものだ。それまで女王国は、魏より公孫氏と親交が深かった。というよりも公孫氏の遼東の地は、列島からの大陸への窓口的な位置 立場にあったからだ。
ところが前年、蜀との闘争を五丈原で勝勢に持ち込んだ魏は、かねて叛服常無い公孫氏に余剰兵力を一気にぶつけた。公孫氏はひとたまりもなく滅亡する。その情報を得た卑弥呼はいち早く魏に朝貢した。勿論、遼東 帯方群を経由するのであるが、今度は、窓口でとめ置かれることもなく、遣いは直に洛陽に達した。二重の戦勝祝いに真っ先に駆けつけた使節は破格の厚遇を受ける。その後も卑弥呼は魏に遣使し、やや弱体な統治体制を、大陸の後見により強化を図ろうとした。
ところでこの活発な遣使は優秀な船なしでは語れない。
また、なにも海外との交流のみではなく、後に大八洲とよばれる列島では、文物の交通交流に船は欠かせない。
邪馬門 辟邪の鋸歯紋
邪馬門 マスト直下
我が国では縄文の昔より、石器材料や装身具材料など、産地の限られる財物の分布から、広範囲の交流が知られている。そのような環境下で、もとはシンプルな丸木船であったものがこの時代に、国内流通はおろか遠く韓半島 大陸まで航える優秀な船に進化した。(と考えた)
当時の船は刳り船=丸木船に舷側板を接ぎ付けた準構造船と考えられている。準構造船は船形埴輪に見られる竪板型のもの、代表は大阪高廻り古墳 二号出土の船形埴輪で、貫型の代表は宮崎県西都原一六九号墳出土の埴輪船である。しかし、船の模型を作る立場からこの二船は、奇異な印象を受ける。
それは、両船の刳り船部の大きなシアーで、丸太から削り出すとなると膨大な作業量で、鉄器とは言え、未発達な工具でとても出来るものではない。また、西都原船では刳り船と舷側板の接なぎが、曲線に直線を接ぐ現代技術でも難しい 仕舞いで、これも現実的ではない。
ここに近江栗東市 新開古墳からすごい船形埴輪が出土した。特徴は刳り船の前後の上面に接する水平の平板である。これは、棹をさすための台とも見えるが、その実、刳り舟の曲線部と平面的な舷側板を無理なく接なぐ接合部材が発達したもので、接合部の水密性をいかに得るか、一材の大きさに制限される刳り舟を、どう大型船に仕立てるかを見事に達成した。
勿論、この三船は、邪馬台国とはかなり時代を異にするのでモデルたり得ないが、遠く韓半島 大陸まで航れる優秀な船をと言うことで、新開船のデザインを借用した。
舷側板はロープで結ぶ板綴じ船とした。オール撓漕と帆走の併用船とした。
図はその復元模型である。
第5船 ホーンブロアーのロングボート
2012年建造 縮尺:1/75 全長10cm
ホーンブロアーのロングボート 英国 1801年
スペイン要塞の奇襲作戦敢行中のホーンブロアー海尉。
英国74門戦列艦レナウン号は、代理艦長バックランド指揮のもと、スペイン要塞の正面攻撃をしたが失敗、艦は傷つき大きな損害をだす。
ホーンブロアー海尉の発議でボートによる奇襲作戦を敢行、要塞は見事に奪取、敵は、艦3隻とともに降伏する。舵柄をにぎるのがホーンブロアー、かたわらにはブッシュ先任海尉が見える。
海の男/ホーンブロアー・シリーズ<2>『スペイン要塞を撃滅せよ』セシル・s・フォレスター
高橋泰邦訳 早川書房 昭和48年12月15日
第4船 遣唐使船 いのまなり
2011年建造 縮尺:1/40 全長70cm
遣唐使船 「いのまなり」
往古、大和川は、大和と河内の国境い、石川との合流点付近から幾筋もの分流となり、大和川デルタ地帯を造り、北上して、大阪平野形成前の巨大な湖、河内湖に注いでいた。今もその名残りを長瀬川、恩智川、玉串川の源流に見ることが出来る。
また東・西除川は狭山池を発し、現在の大和川を横断して大和川デルタ地帯の最左翼を担っていた。そのような、水郷 水都とも言える地形であった藤井寺市・八尾市・ 長吉長
遣唐使船いのまなり図 服部武司氏 画
藤井寺市アイセルシュラホール
にあたるこの地はまた、濃密な船形埴輪の出土地としてもつとに知られている。藤井寺は岡古墳から、土師の里遺跡から、林遺跡から。八尾は中田から、長吉は高廻り古墳からと合計10隻の埴輪船の発見があり、実用された木製の船は久宝寺から、祭祀に供されたミニ船形土器が田井中からと、この地の埋蔵 船舶遺物は枚挙にいとまが無い。水運、海運のメッカであったこの地で、船を棲みかに、船を生業にする民 氏族はまた、堤を築き水を治め、大運河、古市大溝を掘り通しと、ハイテクを駆使する一大技術集団であり、知識階級であった。
そのような土地柄を本貫とする王一族は、渡来系氏族、王辰爾を祖とした。辰爾は列島に文字をもたらした王仁博士の裔と謂い、王辰爾の別れに津氏、船氏、藤井氏がある。津氏は難波津を差配していたと考えられ、船氏はこの地の船便を司り、藤井氏は国宝、千手観音菩薩を祀る名刹藤井寺を氏寺とする家柄で代々、外交官を輩出した。
岡古墳出土 船型埴輪
藤井寺市アイセルシュラホール
いのまなり模型 右は墓誌(レプリカ)
藤井寺市アイセルシュラホール
その藤井氏にやはり海外へ雄飛したいという優秀な若者がいた、真成(まなり)である。
選ばれた藤井真成は、阿倍仲麻呂 吉備真備 僧玄昉らとともに、遣唐留学生として渡唐した。平城遷都7年後の養老元年(717年 第9回遣唐使 )のことである。
長安では藤井真成は唐風に井 真成(せい しんせい)と名乗っていたようで、日本風には「いのまなり」と読む。紅顔19歳の真成は、星霜17年唐都 長安に学び、ようやく、学 成って帰国せんとした矢先の唐の開元22年(734年)正月、突然の死を迎える。無念は幾ばくであったであろうか。
異国で落命した真成を唐の玄宗皇帝は哀れに思い、尚衣奉御の位を贈り、手厚く葬るよう命じた。
2004年10月、中国西安市郊外(長安)からこの井真成の墓誌が発見されたことが発表され、日本の歴史界に衝撃が走った。墓誌には明瞭に日本から、命により来たと記され、その死を悼み「身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と書かれている。
この報を聞いた藤井寺市民から墓誌の生誕の地への里帰り運動が湧きおこった。想いは中国政府をも動かし2005年12月に里帰りが実現、また、レプリカは藤井寺市に寄贈された。
それでは若き、井 真成が希望に胸ふくらませて出帆した遣唐使船を明らかにしなければならないが具体的な資料は無く、まるで雲をつかむような話だ。
だが、幸いなことに専門家、研究家の監修による多数の復元遣唐使船と、研究成果があるのでそれを参考にさせて頂きながら井 真成の遣唐使船を推定すると、やはり研究家の大まかな推論「中国のジャンク船形で全長およそ30㍍、やや幅の広い排水量、300㌧程度、乗組員140人程度で2本マストの帆走、漕航併用の航洋船」と言う全体像を拝借し、設計の要点を箇条書きにすると、
1、形式は中国のジャンク船形、で全長30㍍ まで、排水量250㌧まで。ジャンク船形式であるから船
体は10程度に隔壁によって分割されている。
2、乗組員の居住区は船体中央部から船尾への甲板上の建屋と、その下階に寝棚を設え、その上の楼
台に櫓拍子をとる太鼓を置き、船首甲板上に住吉神の神殿を作る。
3、櫓は片舷20丁、帆は網代帆で、その上に布の野狐帆をはる。
三副舵は練舵で、櫓棚の最後尾に装備する。櫓棚の下には竹束の補助フロートを装備している。
4、刳り舟の艇(はしぶね)を甲板上に備える。
名は「いのまなり」とした。藤井真成の異国での死を悼み、そう名付けた。
決してその様な名の船があった訳ではない。
第9船 古墳時代の刳り船
2014年建造 縮尺:1/8 全長50cm
古墳時代の刳り船
近時、発掘される刳り船の大半は縄文期に属する。
時代区分の縄文期が他に比し圧倒的に長いからなのだろう。船体は、ほぼ、丸太を半裁にして刳り抜いたもので、つまり船の幅は丸太の直径に、深さ(厚み)は丸太
古墳時代の刳り船模型
の半分になる。幅はともかく深さは随分と浅いもので安定性の低い、波にも弱いものだ。ところで、古墳から発掘される埴輪は、深さは充分にあり、且つおおきなシアー(船体の反り)がある。つまり往古の人もシアーの効用を充分に認知していた。さて品川歴史館にある刳り船は、縄文期のものであるが随分と深さがある。観察すると、年輪の中心がかなり上に見える。ということは、丸木をブツンと半裁にはせず、やや上部を切り離して、刳り抜いたと見て取れる。そうこう考えると、シアーを付けることも行われたいたのではないかと考え、そのように削り出したのが図の古墳時代の刳り船である。櫓もオールも行われていたと思われたが、横幅を考えるとパドルであろうかと思われる。
高廻り1・2号墳出土の船型埴輪
奥1号墳・手前2号墳 大阪歴史博物館
縄文時代の刳り船
品川区立 品川歴史館
あたけまる
第7船 信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 阿武丸
2013年建造 縮尺:1/60 全長68cm
信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 阿武丸
大坂の石山合戦に、2 年前の第一次木津川口の戦いで、毛利、村上水軍の焙烙火矢にしてやられた信長は、九鬼嘉隆に命じ、火炎にびくともしない鉄装甲の船を造らせ、ここ木津川表に回航させていたのである。
嘉隆の本拠、伊勢でつくられた大船 6 隻は、回航の途次、淡輪で襲撃を受けるが、鉄の装甲は敵襲にびくともせず、装備する大砲、鉄砲で難なく撃退し、堂々と堺に入港した。
万幕、幟で飾り立てた大船と、多数の船団に堺中が湧きかえったと伝える。
喜んだ信長はわざわざ検分に出かけ九鬼嘉隆に褒美を与えた。この大船には外人もびっくりで、当時、滞在中のポルトガル人宣教師パードレー・オルガンチーが本国に送った書翰に「信長の船7艘、堺に見物したが、日本国中、最も大きく、華麗で本国の船に匹敵する」と褒めあげている。
さていよいよ宿命の天正6年11月6日朝を迎える。会戦は九鬼嘉隆の包囲陣に毛利水軍600余艘が仕掛けた。信長公記によると「始めのうちは毛利軍優勢のうちに推移したかに見えたが、鉄装甲の船には鉄砲も砲も歯が立たず、焙烙や火矢に燃えることもなく、そのうち6隻の大船の大砲が威力を発揮、敵船を間近に寄せおいて、旗艦を打ち崩したから、敵船は恐れをなしてそれ以上寄せてこなかった。その上数百艘を木津浦へ追いこんだので、見物の人々は九鬼右馬允の大手柄だと感心しないものはなかった。」と言う。
以後、瀬戸内東部域の制海権は信長に帰し。毛利の石山本願寺の救援補給は途絶え、2年後の天正8年(1580年)閏3月、顕如は大坂を開城、放たれた火は三日三晩燃え続けたと伝わる。
おそらく信長がもう少し長命であったならば、「坊主が籠ってさえ難攻不落」のこの地に大城郭を構え、中国経略の根拠地にしたであろうが、2年後本能寺に斃れる。
「人生わずか 5 0 年」であった。