信長軍の鉄甲船 阿武丸の改修
紋所の改変 七曜紋から左三つ巴紋へ
あたけまる
改修要旨
戦国期、石山合戦第二次木津川口の戦いにおいて活躍した信長軍の鉄甲船は、九鬼嘉隆が建造した 3門の砲と鉄の甲(よろい)を持つ大型安宅船である。
ところで九鬼氏の家紋は世に七曜紋とされていて、仝船復元模型建造時はそれを用いた。
帆の正面に大きく描かれた紋所がそうである。その後この復元模型船は機会があって鳥羽市教育委員会に寄贈することになり、いまは鳥羽市教育委員会の所蔵となっている。
さて九鬼氏家紋のことであるが、時代により変遷があったそうで、戦国期 九鬼嘉隆は左三つ巴紋であって、七曜紋は後に嫡男守隆が九鬼家を継いでからのことである。
故にここに発表した鉄甲船は左三つ巴紋でなければならない、これは鳥羽市教育委員会の豊田祥三氏の教示により知ったのであるが、確信の持てぬままなおざりになり今に至った。
ところが本年になって、鳥羽市観光商工課・鳥羽市観光協会の肝煎りで、この紋所修正の機会を得て、の度 改修 完工した。
豊田祥三氏によると九鬼嘉隆の裔は鳥羽から離れ三田と綾部に分封された。「三田と綾部に分かれた九鬼氏は、家紋も三田・綾部ではそれぞれ異なっている。三田九鬼氏の家紋は「七星(曜)」で、嘉隆の家紋の「左三巴」ではない。『寛永伝』『寛政譜』ともに、「元は左巴たりといえども、守隆が時にいたりてこれをあらたむ」と記されている。一方で嘉隆の左三巴の家紋は綾部の九鬼氏に引き継がれた。」
(中世武士選書48九鬼嘉隆と九鬼水軍 豊田祥三著 2023年9月10日 戎光祥出版)
とされる。このような経緯で紋所変更改修に着手、この程完工した。
尚、船名の「阿武丸」は当所の慣習上命名したもので、大安宅船であることからの発想である。従ってその様な名の鉄甲船が実として在った訳ではない。
平成24年11月26日竣工 令和6年8月21日改修
鳥羽市教育委員会 蔵 S:1/60 全長680mm
七曜紋 九鬼守隆の紋所
嘉隆の嫡子守隆の代より使われ三田九鬼氏継承された。
左三つ巴紋 改修後の紋所
九鬼嘉隆の紋所、そのままで
綾部九鬼氏に引き継がれた。
左三つ巴紋(改修後)の阿武丸
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